◆亡くなった父のメモから、自分のルーツを訪ね、本にまとめようと決意◆
※この文章は守時氏からの聞き取りに基きます。
守時光睴氏は鎌倉幕府第16代執権北条守時の末裔として、
と題する書籍を刊行なさいました。
北条守時は鎌倉幕府滅亡前の最後の執権。鎌倉幕府に反旗を翻して幕府を滅ぼし室町幕府初代将軍となった足利尊氏の妻は、守時の妹という関係にありました。鎌倉幕府存亡の一大事に執権であった守時が、いかに戦い最期を迎えたのか、その血を引き継ぐ子孫としての強い探求心と情熱をもって、膨大な数の参考文献にあたり、北条氏ゆかりの寺院を中心にこれ又膨大な数の寺院を訪ねて住職から話を聞くという丹念な調査を始めた守時氏。
努力のかいあって、この8月にようやく、本が完成しました。
2016年8月文芸社より新刊完売開始されました。ご紹介します。
「重層的な視野による成果 歴史作家 山村竜也氏推薦」
「第16代執権北条守時の生涯を、その末裔がつづった渾身の一冊である。子孫ならではの丹念な調査をもとに、鎌倉北条氏の知られざる姿を描いた本書によって、われわれは『太平記』の時代をより深く理解することができるだろう。」
第1章 幕府を盤石とした北条氏各流:
北条氏の台頭/得宗家/名越流/極楽寺流/神沢流/金沢流/佐介流/大仏流/赤橋流など
第2章 北条守時:
得宗家に次ぐ家路/執権就任の背景/正中・元弘の変/最後の執権/出陣の背景/守時と高氏など
第3章 北条一族ゆかりの寺
◆亡くなった父のメモを肌身離さず。思いは鎌倉末期、幕府の為に壮絶な最期を遂げた守時の素顔へ◆
──どうしてこの本を書こうと思ったのですか
小さい頃から父親に自分の苗字「守時」の由来について、北条守時から来ているのだと聞かされていました。
父が亡くなる前、家系図とメモを見せて、「守時の名前の由来をきちんと残しておきたかった」と口にしたことが、先祖について調べてまとめたい、と思ったきっかけです。それからは父のメモを肌身離さず、手帳にずっと挟んで暮らしてきました。
わたしの生まれ育ったのは岡山県備前市福田村というところですが、そこの住民はほとんどが「守時」姓でした。守時神社という神社もあります。資料によると、鎌倉幕府滅亡の直前、頼りにしていた足利尊氏が翻意して倒幕に転じ、実妹がその嫁であることから裏切り者の疑いをかけられていた執権守時は、自ら兵を率いて出兵、追い詰められて洲崎で自害しました。
しかし、北条氏の血筋は守時の妹が生んだ2代将軍足利義詮、その弟利基に引き継がれてゆくことになります。守時自害ののち、落人たちが岡山に逃れ備前に逃れ落人の村を形成していたというのです。
我が家と隣の家には井戸と土蔵があり、そこを中心に守時集落は形成されていました。代々伝わってきた刀や槍などの存在もありました。
明治になって、落人の集落は、「北条」を名乗らず「守時」を苗字として選んだのだと聞き伝えられました。
大学時代、アレックス・ベイカリーの『Roots』に出逢ったこともあって、両親亡き後、長男であることもあり、自分の先祖のことをきちんと調べたい!と思い立ち、調べ始めたのです。
◆情報を求めて、鎌倉の寺院全てを訪ね始める。住職からその都度ご朱印を頂き、史実を調べてゆく何年かを重ねました◆
最初に訪れたのは鎌倉の報国寺。
学生のころだったけれど、偶然、鎌倉北条武士の戦死者の埋葬の塚の話を聞いたのです。
それこそは新田義貞が鎌倉攻めをした時の由比ガ浜での戦いでの敗戦武士の無縁仏と教えてくださいました。
その時から、心の中ではいつか北条氏とゆかりの寺を訪問したい気持ちが芽生えていました。
鶴岡八幡宮を皮切りに、鎌倉三十三観音霊場、鎌倉十三仏巡り、鎌倉七福神巡り、鎌倉六阿弥陀仏、鎌倉五山などの全ての寺を巡りました。
その都度、ご朱印をいただき、話を伺いました。
廃寺を含め、鎌倉以外のゆかりの寺院も訪ねました。
(極楽寺のご住職と)
(宝戒寺のご住職と)
洲崎古戦場碑
北条守時は、1333年5月18日 州崎古戦場にて自刃。39歳だった。その場所に残された「洲崎古戦場碑」。
この近くには「陣出の泣塔」と呼ばれる塔があり、戦死者の供養のためと伝承が残っている。
この4日後、鎌倉幕府は滅びることになる。
北条氏の家紋
守時家の家紋
守時邸趾
大学卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)へ入行しました。当時の興銀は役人を役人とも思わない武士のような気風があふれていました。融資をする際の審査をする部門にいたとき、その会社の審査調書というのを書くのですが、そこで徹底して教えられたのが「足で書け」ということです。相手を知りたい時は提出された書類ではなく、「まず現場に行け」ということです。書類の上ではわからないことが現場に行くことでわかります。在庫が実は多いとか、売り上げ値段のごまかしがあるとか。
今回本を書くにあたり、いつも心に思っていました。「寺は足で書け!」と。北条氏のゆかりの場所、寺、史跡には徹底して足を運びました。
◆本を書き終えて◆
敗者の歴史は資料が残されることが少なく、事実を歪曲されることも多いです。調べて書いて消しまた調べて書いて消しの繰り返し。
それでも何とか書き続けられたのは、両親や先祖への供養にしたいとの思いがあったからです。
「わが先祖を書くにあたり、神社仏閣を訪ねているうちに、鎌倉幕府が150年も続いたのは、嫡流である得宗家を北条各流が網の目のように防御壁として支え、結果として鎌倉幕府を長年に亘って巧みに維持してきたことがわかった。」(本書冒頭より)
先祖の実像を明らかにすることのみならず、多くの寺院のご協力を得たことから鎌倉観光発展の一助となればとの思いもあります。
鎌倉を散策するにあたり、この本を読んでいただくことで訪問の楽しみがより深くなり、楽しい発見をし、最後の執権北条守時の人物像と滅んでいった鎌倉幕府をしのんでいただければ幸せです。
【守時光睴氏プロフィール】
1947年岡山県備前市に生まれる
1971年 日本興業銀行(現みずほ銀行)入行
政府交換留学生としてメキシコに派遣される
東京湾横断道路(現アクアライン)出向
2004年同行退職
日墨交流会設立運営
公財 精義塾(岡山県学生寮)
東京青年会議所OB勉強会「一会」
ライオンズクラブ国際協会
東京龍馬会
新潟市サポーターズクラブ
おかやま県観光特使





























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辻 雅子 (月曜日, 08 8月 2016 19:02)
本読ませていただきました。
非常に面白かったです。
鎌倉を訪ねる楽しみが増えましたし
故郷備前を見直すきっかけにもなりました。
鎌倉末期の様子が生き生きと感じられ、
兵どもの夢のあとを追いながら
力尽きた最後の執権北条守時の無念さもひしひしと感じられました。
守時さんにお目にかかれなかったら
そしてこの本を読まなかったら、
鎌倉末期に関する知識も興味も
通り一遍のものだったと思います。
読ませていただき本当によかったです。
ありがとうございました。
匿名希望 (金曜日, 02 6月 2017 18:08)
はじめまして。私は20代ですが、最近になって、父から鎌倉北条氏の末裔であると言われました。それから、先祖の情報を得るために調べているうちに、こちらのHPを拝見するに至りました。
もちろん、私は、得宗家の末裔ではなく、塩田北条氏の末裔とのことです。父の実家は、塩田城跡の近所にあり、40年ほど前までは、代々伝わる日本刀が実家にあったようです。その日本刀は、祖父が、日本刀を身に着けて上田市を練り歩くといった祭事の後に、寄付してしまったそうです。今は、どこにそれがあるのかはわかりません。
私の父の実家の家紋は、北条氏の家紋とは異なりますし、苗字も異なります(推測では、塩田北条氏は逐電していたり、生没不明な者がいるように、北条氏滅亡時前後からは北条であることを隠しながらひっそりと代々暮らしてきたのではないかと考えています)。しかし、私の顔は、北条時政の面影があるように思いますし、父や祖父は、迫力のある顔つきなので、やはり、北条氏一族の面影があると感じます。その他にも、北条氏の末裔と言われると、腑に落ちる点があります。
仮に、塩田北条氏の子孫達について何か少しでもお心当たりのあることなどが御座いましたら、ご教示いただけますと幸いです。どちらに連絡をすればよいか等、皆目見当もつきませんので、こちらにコメントさせていただきました。よろしければ、連絡をとることができる手段をこのコメントに続けて入力していただけないでしょうか。たとえば、鎌倉等のお寺の住職を仲介して連絡をとることなどが考えられます。
それでは、何卒、宜しくお願い致します。
守時光暉 (月曜日, 05 6月 2017 11:53)
塩田北条の末裔の匿名希望の方へ
塩田北条の件につきましては、拙著「最後の執権 北条守時」に書かせて頂いた以上の特別の情報は持ち合わせておりません。お役にたてず申し訳ありません。尚、今後何かの機会があり新しい情報を得ることがあれば、貴職にご連絡させて頂きたいので、ご氏名、メール、電話等を出版元の「文芸社」にご連絡して戴ければ幸甚です。以上宜しくお願い致します。
匿名希望 (水曜日, 21 6月 2017 12:35)
上記のコメントに対して、迅速にご返信下さり、恐れ入ります。本日、文芸社に電話致しました。担当の方に、お伝えして頂いたメールアドレス宛に、お手数ですが、メールを送信して頂けますと、幸いです。
近いうちに、鎌倉に行き、先祖に関わった方々の供養をしてくる予定です。お墓などに行き、お花をお供えして祈るという方法で良いものか、と考えております…。
嵯峨 尚樹 (土曜日, 29 7月 2017 18:22)
鎌倉在住の嵯峨尚樹と申します。
8年前に鎌倉雪ノ下2丁目の旧巨福呂切通のある山林とその周辺の土地を購入しました。
この8年間の間、身の周りで様々な出来事やよくわからない啓示のような夢をみるようになりました。
いろいろと史実を調べているいるうちに貴殿のサイトを拝見し、ご連絡しております。
差し支えなければ一度お電話でお話を聞いていただければ幸いに存じ上げます。
電話番号:080-5007-1103 嵯峨 尚樹
留守番電話の場合は大変恐縮ですがご伝言をお願いいたします、すぐにこちらの方から折り返し致します。
突然このようなメールを送る無礼をお許しください。
北条 益時 (木曜日, 22 11月 2018 00:39)
我こそは北条益時直系一族
中世鎌倉の勉強中 (土曜日, 05 1月 2019 18:53)
初めまして。
鎌倉時代や鎌倉武士に興味があり、また、鎌倉の寺社・旧跡巡りが趣味の者です。
守時さんの御本を読ませて頂きました。吾妻鏡や関連本を独学で読みこなすのは本当に難しいので、こういうテーマの本があるのは喜ばしい限りです。ただ一点気になったのが、北条氏の各人物の解説文がWikipediaにある文章とまったく同じ、ということが多々見られたのですが、この辺の事情を教えて下さい。もしかするとWikipedia側がこちらの守時さんの御本を転載しているのかもしれませんが、一歴史好きとして勉強している者としてとても気になります。宜しくお願い致します。
北条守時の子益時 (水曜日, 16 1月 2019 13:44)
初めまして北条守時直系子孫でございます。
北条守時の子北条益時は戦死しておりません!
そして新田義貞の稲村ヶ崎伝説は嘘!
稲村ヶ崎は北条益時水軍が守っていたのですが、その益時水軍を騙して鎌倉攻めをしたのが新田義貞です。
嘘つき新田義貞
勝てば官軍負ければ賊軍
私の家に伝わる本当の話です。
鈴木佐(建長寺調査員) (木曜日, 19 9月 2019 01:38)
初めまして。鎌倉五山禅僧と北条時頼廻国伝説を調べています。また北条氏の子孫について、尾張の横井一族や九州の名越末裔の小田氏などは確認できましたが、備中の守時一族については初見でした。まだ本を入手していませんが、北条守時伝承ということで、「北条守時」からの系譜などは残っているのでしょうか?また備中には鶴岡八幡などの鎌倉ゆかりの神社などが残るのでしょうか?ご教示いただければ幸いでございます。
追伸
また、塩田北条氏の末裔のかたのコメントがありましたが、塩田北条の末裔もさがしていまして、どうも四国の讃岐にその子孫が戦国期あたりまで活躍したいたような記録が残っています。まだ調査していませんが。
守時 篤志 (金曜日, 19 4月 2024 05:03)
僕も、備前市 福田です。祖父母からは、屋ゴウは、豆腐屋で家門は、特別家だけ、隅切 8角 三段 上り松 と聞かされていました。
祖父は、享年98 守時 眞一
祖母は、享年96 守時 勝代です。
祖父母からは、[家が本家じゃぞ。良いか❗家門を確り覚えておくんじゃぞ。何が有ってても、確り せいよ❗ くじけても、しっかりやるんじゃ❗] お二人の言葉を胸に、今だに 半人前で日々、少しずつ、頑張らせて頂いています。
守時 篤志 (金曜日, 19 4月 2024 05:31)
追進 名刀 備前長船 山鳥毛の件、当時 広島県 西福山 鞆の浦に、息を潜めて居られた将軍様に、書を幾度となく、島から、島へと、携えていた❗と。 村にも、石灯籠 船着き場. 近くに、欅の木が沢山茂る風神さんと、安土室山の古備前で作られた鬼瓦が健在である。改修工事のさいに、備前市歴史民族資料館に寄贈❗ 多少なりとも、偉人に当たる
祖先の諸先輩方の誇りを、胸に、、。人生之挑戦。
守時 篤志 (日曜日, 21 4月 2024 16:08)
祖父 眞一 守時 家 14代
父 雅志 15代
自分 篤志 16代
息子 大和(ダイト) 17代
守時 篤志 (日曜日, 21 4月 2024 16:14)
丸い家門は、分家で、隅切 8角が本家の明かしと、祖父母から、聞かされていましたよ。
吉川 きっかわ (火曜日, 15 4月 2025 01:18)
昔 庄屋 だったと聞いてた 守時さんの土地(福田) を所有 しております
ただ 今は空き地です